22. LIFE

【もう35歳?】35歳の誕生日にある男性が得たある気づきとは

普段は都内でITエンジニアをしております絹田です。わたしは1980年代後半生まれなのですが、はやいもので先日35歳の誕生日を迎えました。いまの年齢の時は、自分の親はもう4歳と2歳の2人の子供を持った親だったのかと驚きます。最近の世代のあるあるですよね。


35歳って結構節目な年だと思います。この記事では、35歳を迎えた普通の男性がどんなふうにその節目を迎えたのかについて記載したいと思います。一般化せずに自身の体験を書いているので「お前の個人的な語りかよ」っていうつっこみもあると思いますが、一般的な観点で書かれたものはすでにあると思いますし、自分が逆の立場で知りたいのはマーケティングやSEOの対策のために書かれた記事ではなく具体的な事例なので、なるべくそのまま書きたいと思います。

悪いことといいことを一つずつ書きます。

悪いこと:若者扱いされなくなった

30代前半まではなんだかんだ周りからは若者扱いされてましたが、最近はぱっと見がおじさん、あるいは控えめに言っていい大人という目で見られるようになりました。結果、一人前にふるまうべきというプレッシャーを日々の生活の中で感じます。ようするに周囲の目線が若干きつくなったんですよね。

例えば、公園で寝ているとするじゃないですか?数年前はぱっと見が若かったためどんな格好でも「若者が寝ている」くらいに思われていたとおもいます。でも、最近はぱっと見がおじさんなんで「変な”人”が寝てる」って感じなんですよね。評価がもう世代単位ではなくて個人単位でされる歳になり、甘えられなくなったと感じます。

いい点:若い時の経験が熟成されてくる

一方のいい点としては、仕込んだ大豆がしばらく時間をおくと味噌になるように、35歳になると若い時に学んだことがいろいろつながってくるような感覚があります。10代や20代のころに学んだことや経験したことはたくさんありそのなかにはもう過去のものとして忘れていたようなことがあるのですが、ふとしたときにそれらが自分の中で有機的につながって自分のオリジナリティになっていると感じるときがあります。これは予想外にうれしいことです。

わたしは昔から「生きるとはどういうことか」「価値ってなにか」「どう生きればいいのか」みたいなことを考察するのが好きでした。宗教的なものへのあこがれが強かったです。仏教や心理学、哲学が好きで、探求のために禅、マインドフルネス、その他様々な瞑想会に参加してきました(ヴィパッサナー瞑想や内観などもしました、懐かしい)。そういうなかでようやく自分なりに納得ある答えがでてきたのも30代を過ぎたころです。ただ、特に35歳というのは節目であるように感じています。35歳を前に十代のころから考えていた哲学的な問題に対して神様が回答を教えてくれたような大きな気付きがあったからです。お釈迦様は35歳で悟りを得たといいますが、それを感慨深く感じてしまうくらいの大きな発見で、自分としては35歳は若い時に学んだことが自分のなかで結実する年齢なのだなという理解をしています。

35歳で得た気づきとは

どんな気づきがあったんだっていうことでこちらの詳細も書いておきます。いったんなんのこっちゃって感じですが、まぁ一つの例として書いておきたいと思います。

わたしは十代のころから「生きるとはどういうことか」「価値ってなにか」「どう生きればいいのか」みたいなことを考えるの好きだったのですが、35歳で得た気付きはそれに対する回答として現れました。その気づきとは、「もっとも価値のあることはいまここの瞬間へのラベリングという行為である」ということでした。いったいなんのこっちゃという感じですが、これは20代のころに学んだことがバックグラウンドにあり、自分にはその融合がこの言葉で起こったのでした。

20代のことに学んだ1つ(1/3)

学んだことの一つは、自分の行動の意味付けです。7つの瞬間は、有名なビジネス系の自己啓蒙書ですが、そのなかにこういう言葉があります。

出来事と反応の間にはスペースがある

7つの習慣

これは、人は反応を選べるということです。これと関連してアドラー心理学を私はよく学びました。また神との対話のなかでニールの「なぜこんなに苦しみがあるのでしょうか。」という問いに対して神はこのように答えます。

わたしは苦しみが終止符をうった。私が与えた道具と使って苦しみを終わらせるのをあなた方が拒んでいるだけだ。いいか、苦しみは出来事とは何の関係もない。出来事に対する反応の中にあるだけだ。出来事はただ起こっているだけだ。それをあなたがたがどう感じるかは、またべつの問題だ。

神との対話

これも同じです。わたしは自分の行動について、選べるものなんだ、ということを学んだように思います。

20代のことに学んだ1つ

そしてもう一つはマインドフルネスです。関連して禅やヴィパッサナー瞑想について学びましたが、これは今ここへの気づきを重要視する考え方です。

マインドフルネスとは、今ここに気づくという心の持ち方のことで最近ストレスマネージメントや医療の分野で関心が高まっています。もともとは原始仏教のヴィパッサナー瞑想から宗教色を除いた瞑想法です。わたしはこれを長く続けています。また、学生時代に量子力学を学んだこともあり、観察する前には、物質は波として存在しているのに、観測することで波動関数が収縮して粒子になるいう現象を通じて、今ここというのは所与の神話として与えられるのではなく、自分の気づきと共創造されるものだという理解をしていました。

どのように融合したか

そして、これが自分のなかで融合されて、「もっとも価値のあることはいまここの瞬間へのラベリングという行為である」という理解の形で訪れました。私はマインドフルネスを通じて、すべからくものごとは身体感覚を通じて認知されると考えているのですが、その出来事をどのようにラべリングするかが世界の枠組みを作り変えるということのみならず、反応を選ぶことができるようにラベリングを選択できるということで、自分が今ここを通じて世界の枠組みを創造する自由を持つことに気づきました。そして、これ以上価値あることなどあるのだろうか、自分はこれをきわめていくしかないのではないかという発見をしました。

創造的な気づきによって世界を作り出せるという自由を感じたのです。これを行い続けることが人生を生きるということではないのか、と。

ラベリングとは、マインドフルネスにおける気づきのことです。したがって、ラベリングとは創造的な行為です。そして35歳になった私の気づきは、この創造的な気づきという行為が「出来事はただ起こっているだけだ。それをあなたがたがどう感じるかは、またべつの問題だ」「出来事と反応の間にはスペースがある」と理解とつながったことによって得られたことでした。つまり、マインドフルネスにおける気づきは創造的な行為であり、そしてそれを自分が選択することができる、望む世界を創造的な気づきという行為によって作り出せるという理解だったのです。

「出来事と反応の間にはスペースがある」ことはすでに20代の後半には自分の中では既知の気づきとなっていました。これが、マインドフルネス得た気づきとは世界を作り出すことだということと結びついて、自分は世界を創造し続けることができるということに気づいたのです。

こんなすばらしいことがあるなんて思いもよらなかったです。これってすごくないでしょうか。最後に神との対話の好きな部分を抜粋して終わろうと思います。

「魂のゲームをしている」とはどういうことか、はっきりさせよう。それは精神と身体と魂をあげて、神の姿をかたどり、神ににせて自己を創出するプロセスに没頭することだ。(中略)それは一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬をゆるがせにしない最高の意識の活動である。毎瞬繰り返される選択と再選択である。創造し続けることである。意識的創造である。目的を持った創造である。これまで話し合ってきた創造の最高の道具を使うこと、それもはっきりと意識して、最高の意図をもって使うことである。それが「魂のゲームをする」ということだ。

神との対話

終わりに

35歳になるとはどういうことか記録がてら書いてみました。35歳は大人ということで少し責任も重くなりますが、自分の中にそれを上回るお宝が見つかって、35歳になったことをよかったことだと思っています。誰かの参考になれば幸いです。

データサイエンティスト
絹田 雅
アーナンダよ、あなたはカピラヴァットゥのサキャ族の人たちに、修学すべき人(有学)の修学と実践について説明しなさい。わたしは背中が疲れました。背中を伸ばそう。 マハーナーマよ、ここに貴い弟子は戒をそなえ、感覚器官の門を防御し、食事の適量を知り、覚醒しており、七つの正しい教えをそなえており、明瞭なこころに依存し、現世で安楽に過ごす、明瞭なこころに依存する四段階からなる瞑想(四禅)を希求し、容易に得て、困難なく得ます。
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