観察で得られる智慧
これかが智慧の説明。 ヴィパッサナー実践とは、 ありのままにものごとを観察すること。 この観察作業が着々と進むときは、智慧が現れる。他の宗教では信仰が欠かせない条件になっているのと同様に、 仏教の場合は智慧が欠かせないものとなっている。
その知恵を事前に説明しようとするのがこちらの部分。 観察瞑想を実践することによ
り、身につく智慧は vipassanā-ñāna 観智といい、 十種類ある。
①思惟智は客観智
一番目は sammasana-ñāna思惟智。 Sammasana とは observation (観
察)という意味。 分かりやすく言えば、 よく調べてみることで、調べてみる能力が身についたならば、 思惟智に達したと言える。
思惟智とは、 ヴィパッサナー実践をする人に最初に現れる智慧。
心に感情が生まれたときも、その感情と、なぜその感情が起きたのかという原因も観察しておく。 眼耳鼻舌身意にデータが触れるたびに、 そのまま確認する。 このように修行し続けると、見事に確認能力が上がる。 何事が起きても客観的に観られるようになっています。 この能力を、思惟智と言う。
②生滅智は現象の生滅を観る
二番目のステージは、 udayabbaya-ñāna 生滅智。 思惟智に達した人が、次に生滅智に達する。一切の現象は生まれては消えるものである、という智慧。観察によって得られる知見。
③ 壊滅智は滅だけ観える
さらに観察を続けた結果、いかなる現象についても、「滅する、 滅するすべての現象が常に滅していくのだ、という真理でにきづき、 「かならず滅していく」という一切現象の本性が観えてきたところが、 壊滅智。
④ 怖畏智は恐れ
次はbhaya-ñāna 怖畏智。 ありのままに現象を観察したところでおのずから起こる恐怖感は、智慧。
⑤ 過患智は無価値の発見
次の智慧は、 過患智ādinava-ñāna 。ヴィパッサナー実践をする修行者は、まず客観的に観察して、生きるとは何かとデータを集める。 そして思惟智が現れる。 命とは生滅している流れである、と発見し、次に生滅智が現れる。 現象は派手に壊れるものである、と発見します。 次に壊滅智が現れます。 今まで生きることに喜びを感じましたが、今度は生きることに対して、恐怖を感じ、そして怖畏智が現れる。 結論として、命には何の価値もないと発見する。過患智とは、偏見で長所を無視して、 短所だけ取り上げるやり方ではなく、無常たるものには、 価値は成り立たない、 という智慧のこと。
⑥離智は自分を丸ごと厭う気持ち
過患智から、 厭離智 nibbida-ñāna が生まれてくる。 Nibbida とは、嫌うこと、興味を失うこと、諦める気持ち。 価値がないと分かったら、 自然に生まれる気持ち。過患智が現れたら、 生きることが無価値であると発見し、厭離智が現れたら、何としてでも生き続けなくてはいけない、という衝動は消えていく。
⑦ 脱欲智は解脱したい気持ち
次に、脱欲智 muccitukamyata-ñāna (muñicitukamyata-ñāna) です。 解脱
したいという気持ちが生まれる。
⑧ 省察智は思惟智に似ている
心が解脱の方向へ向いたら、 ある程度の落ち着きが起こる。省察智とは、心が解脱に向いてから、また現状を観察すること。第一の智慧であったsammasana-ñāna思惟智に似ているが、そのレベルが違う。
⑨ 行捨智は平安な心
次に、sankhara-upekkhañāna 行捨智が生まれる。 すべてのものごとについて、捨の気持ち、喜ぶこともなく嫌うこともなく、捨の、平安な気持ちが生まれる。ヴィパッサナー瞑想を通じて生まれる落ち着きのこと。
⑩ 随順する智
次に、anuloma-ñāna 随順智が生まれる。解脱に随順するという意味で、解脱への安心感による安心感を得ること。