一九九二年の春―復活祭のころだったと記憶しているが―驚くべきことが起こった。神がわたしに語りはじめたのだ。わたしを通じて神は語った。
説明しよう。
そのころわたしは、私生活でも仕事の面でも、苦しんでおり、不幸で、どちらを向いても自分の人生は失敗だと感じていた。以前から何か考えると手紙を書く癖があったので(ふつうは、書くだけで投函はしなかった)、気持ちを吐き出してしまおうと、いつものように黄色い便箋をとり出した。
このときは、自分を苦しめている相手ではなく、もっと奥にある根源に直接、思いをぶつけたかった。人間を苦しめている根源、最も偉大な相手だ。わたしは神に宛てて手紙を書こうと考えた。
悪意のある激しい、混乱と歪曲と罵倒に満ちた手紙になった。それに怒りをこめた問いのかずかずが並んだ。
どうして、わたしの人生はうまくいかないのか。うまくいくためには、何が必要なのか。どうして、わたしは幸福な人間関係を結べないのか。どうして、いつまでたっても金に困りつづけていなければならないのか。そして最後にこれがいちばん大きな質問だったが、こんなに、もがきつづけていなければならないなんて、わたしがいったい何をしたというのか。
驚いたことに、回答のない苦々しい質問を書き終えてペンを放り出そうとしたとき、わたしの手は見えない力で押さえられているように、紙にのったままだった。ふいに、ペンが勝手に動きはじめた。何を書こうとしているのか、予想もつかなかったが、わたしはともかく手が動くのにまかせた。すると……。
何か別の存在に憑依されて肉体を支配されているかのように、自分の意識とは無関係に動作を行ってしまう自動筆記という現象がある。青森のイタコやシャーマンなどは一時的に霊に身体を貸して言葉で語るが、それと似たものである。
神との対話は、ニールが自動筆記で神との対話した内容を記録したものだ。ニールが神だと思っていた物が本当のところなんであるかはわからない。別の霊的な存在だったのか、それとも妄想だったのか、あるいはニール自身の無意識だったのか、あるいは自動筆記という帝で書いたニール自身の著作かもしれない。
だから「神との対話」と聞くと、とても読む気にならないというのが正直なところかもしれない。
それが普通だ。
それでもこの本は俺には衝撃だった。ここに書いてあることは役に立ったし、この本以外で聞いたことがないほど素晴らしかった。多くの人がそのように表現するこの本を騙されたと思って一読してみてほしい。
最終的には、君にとって内容が役に立つかどうかで判断すればいい。役に立つなら取り入れればいいし、役に立たないなら神の言葉でも捨ててしまえばいいからだ。
今日のメッセージはこれだ。
役に立つなら取り入れればいいし、役に立たないなら神の言葉でも捨ててしまえばいい。